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6人の女たち_#Vol.03 ベビーカーを押す女

2017.06.11
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PLSTのお客様を主人公としたフォトノベルがスタートしました。様々な境遇の女性たちが、悩みや葛藤を抱えながらも前向きに明るい一歩を踏み出すストーリーを全6回でお届け。今回の主人公は、専業主婦36歳の女性です。

ベビーカーを押す女_専業主婦・遥36歳

家族のために、季節ごとの美しい花で家を彩ること。
手間と時間をかけて毎日食事を作ること。
それを美味しいと喜んでくれる家族がいること。
太陽の光にたっぷりとあてたお布団。
家中にふんわりと広がる手作りのパウンドケーキの甘い香り。

専業主婦だからできることはたくさんある。時間と優しさをたっぷりと家族のために使えることを、遥は心の底から幸せだと思っている。

「世田谷区の待機児童数って日本一なのよ!あぁ、本当保育園に入れたのが奇跡みたい!」

目の前で、ベーグルにクランベリークリームチーズを塗りながら、翠ちゃんママが、今日何度目かの「奇跡」という言葉を使うのを、遥はどこか遠い気持ちで聞いていた。

近所のねこじゃらし公園で今年2歳になる娘を通じて親しくなったのが翠ちゃんママだ。35歳と、遥より一つ下ながら、葛飾区出身というチャキチャキの江戸っ子で、竹を割ったような気持ちの良い性格の彼女と仲良くなるのにそんなに時間はかからなかった。

東横線の自由が丘駅から徒歩5分のところにあるベーグル屋さんに、午後の柔らかい日差しが差し込んでいる。子連れOKのこの店は、ランチタイムになると、近所のママたちでとても賑わう。

ファミリアのクマのアップリケがついたタオル地のロンパースに包まれた翠ちゃんは、エアバギーに乗せられてすやすやと眠っている。生後10ヶ月の翠ちゃんの雪見大福のようなぽちゃぽちゃほっぺは、少し上気してほんのり赤い。遥の娘はといえば、今日は珍しくお気に入りのお人形で静かに遊んでいる。

翠ちゃんママは、ベーグルを片手に、東京都の中でも世田谷区の保活(子供を保育園に入れるための活動)事情について熱っぽく語っている。テレビ等で待機児童問題が取り上げられる度に登場する世田谷区の激戦区ぶりは知ってはいたが、翠ちゃんママから語られる話に開いた口がふさがらない。
「とにかくね、保育園の説明会ですら既に枠が埋まっているのよ。説明会に参加しないと申し込みの権利が得られないんだから、スタートラインに立つことすら難しいわけ。

翠ちゃんママはその時の怒りをぶつけるかのように、ベーグルに大口でかぶりついた。食事の手が止まっていた遥も、我にかえり、フォークに刺さったままのフライドポテトを口に運んだ。ここはベーグルも美味しいのだが、ガーリックパウダーにカイエンペッパーを合わせたサクサクのフライドポテトが隠れた逸品だと思っている。

「でも、本当よかったね。これで、お仕事に復帰できるね。」

そう言うと、保活トークでどんどんとヒートアップしていく翠ちゃんママは目をキラキラさせて笑った。

「本当奇跡よね!あー、早く仕事したい!」

何度目かの奇跡という言葉の後に続く翠ちゃんママの「仕事したい」という伸びやかな言葉が、遥の耳にざらりと残った。

遥は、池袋にある大学を卒業後、丸の内に本社がある保険会社の地域限定職として就職した。特にやりたいことがあったわけでもなく、地元の東京から出たくない、という程度の軽い気持ちで転勤のない地域限定職を選んだ。お給料は多くは無かったものの、実家から通う遥にとっては十分な額で、お給料は全て友人との外食費や、洋服に消えていった。

26歳の時、税理士である今の夫と結婚した。経済的には何不自由なく、夫からは、「仕事は続けたかったら続けていいし、好きにしていいよ。」と言われたのでしばらくは続けていたが、仕事で何か成し遂げたい目標もなかった。それよりも、いつも家のどこかしらにある綻びが目についていた。

テレビ台の下にうっすら溜まった埃、お風呂の隅の赤カビ、ぴかぴかだった台所の蛇口はいつの間にか薄い膜がはったように輝きは失われていった。仕事帰りにスーパーで買い物をしてきて料理を作ることもなかなか大変で、出来合いのお惣菜で食卓を埋めることもあった。

夫から咎めるようなことを言われたことはなかったけれど、仕事の忙しい夫がもっとくつろげる家にしたい。その気持ちが強くなった遥は、27歳のときに仕事を辞める決意をした。上司や同僚がささやかな送別会を開いてくれたが、遥を引き止めようとする人は誰もいなかった。特段仕事への情熱がある方ではなかったものの、あまりにもさっぱりとした最後に苦笑いしたことを覚えている。

その日、夫を送り出すと遥は、早速家事にとりかかった。

今日はやらなきゃいけないことが山積しているのだ。明日土曜日は、夫の大学時代の友人が家に遊びにくる。献立は昨日ピックアップしたが、今日中に買い物をして料理の下ごしらえをしておかないといけない。おもてなし用に、新しいテーブルウエアと食器も新調したいし、初夏の花も花瓶に生けたい。
となると、どうしても午前中には家事を片付けておきたかった。

夫の平らげた朝食の皿を洗い、掃除機をかけ、クイックルワイパーで家中を磨く。洗濯カゴに入った洗い物を洗濯機乾燥機に入れてスイッチを押すと、クリーニング屋に持っていくため、夫の着たシャツを袋にまとめた。今日は燃えるゴミの日なので、ゴミ袋を持って家中のゴミ箱を集めて回る。

休む間もなく遥はフル稼働で家事を仕上げていった。我ながら、専業主婦は天職だと思う。家事も掃除も苦にならないどころか、ぴかぴか光る床を見ながら、夫の喜ぶ顔を思い浮かべると鼻歌すら自然に出てくるから不思議なものだ。

一呼吸つくと、テレビの前でアニメを見ている娘のパジャマを脱がせて、プチバトーの水色のワンピースを着させた。

「テレビはおしまい。さぁ、お出かけするよ。」

遥は、ぐずる娘を抱きかかえるとベビーカーに乗せた。

自由が丘駅から東急大井町線で2駅の尾山台駅。そこから徒歩5分のところにある低層マンションの2階が遥の家だ。重厚なベージュの石造りの落ち着いた外観はこの街にしっくりと馴染んでいる。近くには、ねこじゃらし公園や、九品仏もあり、自然に恵まれ緑豊かな街並みが心地良い。自由が丘まで徒歩15分というところも気に入っている。

ストッケのエクスプローリーは、座面が高く母親と距離が近く向き合って座れることから人気のベビーカーで、お値段は少し張るものの、夫を説得して買ってもらったものだ。大きな車輪は、石畳が多い自由が丘を散歩させるときなど、衝撃を吸収してくれるので安心だ。

笑顔で遥に話しかけてくる娘を見て、このベビーカーにして正解だったなと遥は微笑む。

ベビーカーを押しながら、昨日の翠ちゃんママの「仕事したい!」というキラキラした顔が脳裏に浮かんだ。政府が掲げる「1億総活躍社会」というビジョンは、基本的にポジティブに世の中の女性に受け入れられていて、翠ちゃんママのようなワーキングママの支えになっていることだろう。

しかし、専業主婦の遥は、少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。

遥は、もうすぐ2歳になる娘と夫と3人で、とてつもなく裕福ではないけれど、それなりに幸せな日々を過ごしていると自負していた。それでも、やはり、時代の流れに乗って水を得た魚のようにイキイキと仕事をしている女性を見ると何故か後ろめたい気がしてしまうのは何故なのだろう。

タイムレスコンフォート、私の部屋、CIBONEなど、自由が丘にはおしゃれなテーブルウエアや、食器を扱っているお店が多い。

テーブルウエアに、ガラスの涼しげな食器、白い小さな花が可愛い小手毬を買うと、ベビーカーの下の荷物入れに詰め込む。最後に自由が丘のピーコックに寄れば、今日の予定は終わりだ。

時計を見ると、14時。

少しだけ時間があるので、久しぶりに、『PLST』に寄ってみた。自由が丘の『PLST』は、店舗面積が比較的広く、通路幅も広くとってあるので、近所に住んでいる遥と同じようなママたちがベビーカーを押してやってくる。メンズアイテムが豊富なのも特徴だ。明日、夫の友人をおもてなしするために、ゆったりとした、それでいて、キレイめなロングワンピースなんか無いだろうか。

ベビーカーを押しながら店内を回っていると、ふと遥と同じようなベビーカーを押している女性が目についた。専業主婦の女性だろうか、メンズ売り場で男物のシャツを選んでいた。その横顔は、誰かを思って幸せそうに微笑む、愛情に満ちた顔だった。

「何かお探しですか?」

その女性の美しい横顔にしばし見惚れていると、後ろから店員に声をかけられた。

「あ、いえ・・・・」

咄嗟のことで、何と答えていいか分からずうろたえていると店員は、ベビーカーに乗っている娘を見て笑いかけた。

「かわいいお子さんですね。ママと一緒にお買い物なんて嬉しいねぇ。」

そう言うと、娘は、「うん!」と弾むような声で返事をした。

その娘の笑顔を見て、遥は改めて今の自分の生活を愛していることを思い知った。
仕事で、自分が何かを成し遂げることに関しては情熱を注げなかった遥だが、今は、娘や夫が笑顔になれるように、全力でサポートしたいと心の底から強く思っている。小さな娘の側で惜しみなく愛情を注ぎたいし、ひとつの成長も見逃したくない。家族のために働いてくれている夫が明日への活力を養える家にしたいし、たまの休みには寛いで幸せを感じてもらえる空間を作りたい。

この気持ちが、仕事をしたいという感情より劣っているとは思えないし思いたくもない。1億総活躍社会とは、女性も皆社会に出て働けということではなく、個人個人のしたいこと、適正に合わせて、それぞれの輝ける場所を見つけようということなのだ。

自分のために仕事をすることも、誰かのために生活を彩ることも同様に愛おしいものである。時間と優しさをたっぷりと家族のために使えることを、遥は、改めて心の底から幸せだと思った。

遥は、娘をあやしてくれている店員に向かって話しかけた。

「夏用の男性のシャツが欲しいんですが・・・オススメありますか?」

「ご主人様のですね。これからの時期だと、サッカー生地のシャツなんか涼しげでいいですよ。ご案内します。」
店員はメンズ売り場へと歩きながら、遥と娘を見てにっこりと微笑んだ。

「こんな素敵な奥様と娘さんがいて、ご主人様は幸せですね。」

謙遜して首を横に振りながらも、遥の心の中にじわじわと幸せな気持ちがこみ上げてくる。幸せなのは自分の方だ、と緩む口元を押さえて店員の後を追う。その様子をベビーカーに乗った娘がニコニコと笑って見ていた。


Photo:@koichi1717
Text:yukiko sakashita
Model:@lilyshandmade
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